ここ最近、面接や登録会に出かけることが多くなってきたんです
働きたいからね、普通に動いたりして働きたくなっちゃいまして、毎度のことですけどね
私の身体のことを考えると在宅ワークのようなことの方がいいと思うんです、今の情勢的にも
でも、私は小学生の頃からやんちゃな娘であり、中学生の頃もまだ小さかった弟や後輩と一緒に走り回っていたりして
高校生の頃なんて登下校のみ義足を使ってはいたけれど基本的には片足。
文化祭で、クラスでお化け屋敷をやるってなった時も廊下を片足でぴょんぴょんと猛ダッシュで走り回っていたり、お手洗い行くときも基本は杖なしで行っていたり、体育も普通に片足で参加していたり
その時も嫌な事あったりしたけど、擁護というか片足でも義足つけていても私は私だと言ってくれる友達がたくさんいたおかげで私は義足をつけるかどうかも自由に選択出来ていた。ある意味私の周りは差別をするような子が少なかったと思う
元々そういう友人がいた子やそういう子が親族に居た子や人間として出会ってる以上なにがなくてもあっても人間だっていう認識の子
そういうのがわりと多かったかなって、今でもそういう子との交流はあるし、そういう子のそばにいるのは何も身構えなくて済むし、楽だから話すかな
そういう事もあり、私は人を嫌いにならず。むしろ、好きだと思う。人と話すこと
人が話してくれる事、だからTwitterとか欠損BARでも楽しくしてる
反省点としては前の生誕祭の時の配信の回、もっとうまくできたらよかったのにな。って思ってる。ああいうの初めてだったからどうしたらいいのかわからず、結局その場にいるぽわんさんのお話を聞くしか出来なくて…。
人のお話は顔を見る、という癖が出てしまって
カメラを見てと言われてしまったが…汗
もし、次の機会があったらまた顔晴ろう。
それで、面接とかを受けるとどうしても昔のことも思い出す。
そう、障害があるから門前払いを受けること。
もちろん、今の世の中だからこそ門前払いはしなくても…
“貴女のその身体ではー…そのー…。”と貴女では無理ですよとストレートに言わず、遠回しで無理でしょ。と言われることが多くて
そのせいで、私が私の身体のフォローしてせめて面接だけ受けさせてもらう
せめて、本当にせめて面接は受けさせてもらわないと身体のせいで落ちた。なんて思いたくないから
でも、それでもやっぱり目が一番真実を語る
私の身体を見てダメな場合、目が泳いだり驚愕したりする。そういう場合大抵落ちる。
でも、受かる場合は本当にわからない
面接官から出て来る言葉・目を見ても驚愕もせず泳いだりもせずどもったりもしない、そういう人は本当に受かるかどうかもわからないから怖い。
それでも、受けて貰えるなら嬉しい。私でも出来る仕事があるんだと嬉しくなる
必要されているんだ、と思えるから
だからこそ、門前払いや門前払いっぽくされるのは精神的にキツイ。
義足者だから、足がないから、そういう些細なことでも業種によっては出来ないものがあるんだと今でも思い知らされる。久々にそういう感覚に思いやられた時
苦しくて、辛くて、もう嫌だという思いになり、大人なのに涙が流れる
悔しくて…辛くて。
それでも前に進まなくちゃいけない、そういう思いで苦しくてもきっと受け入れてもらえる場所があるんだとそう思うことで前に進む事ができるんだ
きつい時は友達たちが、味方達がいるんだという思いを抱え
一時涙を流しても、病んでいても
苦しい思いを抱いていても、笑うこそに意味があるのだと
だって、笑っていればなんとかなる気がするし
だから、これからもなにがあっても笑っていくよ。それが
パッと咲き誇り、人々の心に残る日本の桜と同じように
私の人生に正しかったと、自分の人生に誇りが持てるような気がするから
そんな最近の桜のお写真も載せとく*\(^o^)/*